社山城

やしろやまじょう
  • 社山城
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  • 社山城
  • 名称やしろやまじょう
  • 俗称・別名八代山城
  • 所在地磐田市社山
  • 様式山城
  • 遺構曲輪、腰曲輪、土塁、堀切、竪堀、横堀
  • 関連武将徳川家康 今川氏親 武田信玄
  • 文化財指定磐田市指定史跡

磐田原台地の北端の地形を巧みに利用して築いた山城

磐田原台地の北端部にある独立丘陵状の標高136mの山頂に位置する社山城。浜松・見付・森・二俣の結節点となる要衝に築かれ、狼煙などによる周辺城郭との通信が可能な、中遠・西遠地域における拠点的城郭と考えられています。

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社山城の歴史は、創築年代や城主、廃城年代など、いずれも明らかにされていません。わずかに『宗長日記』に「抑、備中守泰煕当国にをきて粉骨戦忠の次第、社山に左衛門佐殿在城。配流をもって、二俣の城へ退け」云々とあり、文亀のはじめ頃(1501~1503)に斯波と今川との抗争の際に斯波義雄が社山に在城し、今川氏によって二俣城に追われ、斯波氏から今川氏の属城になったことが分かります。
元亀3年(1572)10月、武田信玄は遠江侵攻を開始。『三河物語』の中に「信玄は見付之台より合代嶋へ押上て陣取」とあり、見付から一言坂を経て北上し、二俣城を攻略するため合代島に本陣を置きました。この本陣が、社山城なのか、その北約2kmの位置にある亀井戸城なのか、はたまた眼下の合代島の平野部なのかは判然としませんが、信玄は二俣城攻略に2ヶ月も要していることから、社山城を中心として合代島周辺が一体的に使用されたと考えるのが妥当と思われます。
構造としては、大規模な二重堀切や緩斜面に横堀を配しているなど、武田方の山城の典型的な特徴が見られます。中でも二重横堀や曲輪を分断する大規模な堀切、二重の帯曲輪など、かなり高い防御性が見てとれ、遠江における武田方の山城の中でも屈指の規模と内容の城郭と考えられます。
また、この地は、浜松・見付・森・二俣の結節点ともなる要衝であり、ここを押さえることは、中遠・西遠地域制圧の必須要件だったと思われます。
社山城から南方5.5kmに匂坂城があり、東方にある仲明城や北西にある鳥羽山城とも視界が開けているため、狼煙などによる通信が可能だったと考えられ、周辺城郭をネットワーク化できる拠点的な城郭と位置づけることができます。

成り立ち

『広瀬村誌』によると、社山城は寛和年間(985~987)に、参議中将藤原友實の長子鷺坂十郎則實が築城し、以来11代に亘ってその子孫が居城したとされていますが、論拠が明らかでなく、所伝の信憑性にも疑問が持たれています。
しかし、明応年間(1492~1500)に、社山城が存在したことは『信濃小笠原家文書』や『宗長手記』によって明らかにされています。すなわち、当時の遠州地方は、今川氏と斯波氏という新旧守護勢力の抗争の接点になっていたので、明応9年(1500)3月、遠江旧守護の斯波義寛が遠江の失地回復の目的で、弟義雄を社山城へ送り込んだことが上記史料に記されています。もっとも義雄は、翌文亀元年(1501)には今川氏親によって二俣へ追われたため、それ以降や城山城は、今川氏の属城となったものと考えられます。従って、天文元年(1532)頃に社山城に在城したという菅沼重左衛門定平(広)(『匂坂家譜』)という人物は、今川氏配下の武将と思われます。
その後、『広瀬村誌』によると、永禄年間(1558~1569)に大賀源次郎、山田八造なる者が相次いで居城し、永禄12年(1569)には、甲斐の武田氏との間で攻防戦が繰り広げられとされていますが、良質の史料には発見できず、同年に今川氏が滅亡しているため、当時の勢力関係から、この時期に社山城が徳川氏の軍門に下ったと推察される。
元亀3年(1572)10月、武田信玄は青崩峠から遠江へ侵攻し、二俣城を攻略するために合代島へ本陣を構えました。合代島は社山城の北1.8kmの地点にあることから、その時点で社山城は信玄の支配下に置かれたと考えられます。ところが、『浜松御在城記』その他の史料には何の記述も見られず、ただその翌年(天正元年・1573年)に、二俣の敵(二俣城は前年落城し、武田氏の属城となっている)に備えて、徳川家康が社山に砦を構えたことが『煕庵遺書』等に散見されるだけで、廃城となった年も明らかではありません。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

社山城は、磐田原台地の北端に隆起した小山塊(標高136m)の尾根を巧みに利用して構築した山城で、城の南北と東方を谷と堀切で遮り、西は天竜川の断崖に面する要害城です。全体的に遺構の保存状態はよく、現在も本丸、二の丸跡とそれらに付随する帯曲輪等を残していて、本丸と二の丸を隔てる堀切は、とりわけ規模が大きく、見応えがあります。その他の遺構として、上記堀切に面して二の丸側に土壇状の土塁2ヶ所と、本丸西側帯曲輪に高さ1m、長さ15m程の土塁が遺存しています。
出典:「静岡県の中世城館跡」

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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