見付端城

みつけはじょう
  • 名称みつけはじょう
  • 俗称・別名破城、古城、見付城、遠府城
  • 所在地磐田市見付字古城
  • 様式平城
  • 関連武将狩野加賀守 今川吉忠 堀越用山

室町時代初期、今川家の遠江における拠点とされる城

室町時代初期、今川家草創期の遠江・駿河守護今川範国の遠江における拠点とされる。また、遠江今川氏、貞世・貞臣以後数代の居城となり、のち堀越に移ったものかと『遠江史蹟瑣談』にあり、創築・居城者について不明確であるが、堀越貞延・貞基・氏延の居城(蠧簡集残編・浅羽岩松寺蔵鰐口他)と堀越館との併用が考えられている。寛正6年(1465)狩野七郎右衛門尉と斯波氏被官狩野加賀守との抗争、文明6年(1474)狩野宮内少輔、同8年横地・勝間田氏らの対今川義忠戦の拠点と推定される。永正年間より反義元派に属した当城主堀越用山は、義元の命を受けた犬居の天野氏により天文6年(1537)4月落城し、『静岡県史料』所収「天野文書」に、「去廿六日見付端城乗崩之刻、粉骨感悦候…」とあり、見付端城の名の初見である。この後、義元に接収修理され、永禄6年(1563)堀越氏一族の時焼失したとみられ、廃城は永禄12年(1569)1月、徳川家康の城之崎城築城の時と考えられる。磐田原台地見付中央丘陵の東、中川の西、標高約10mに位置し、南郭跡の大見寺境内より北郭跡の磐田北小学校一帯が想定される。現在遺構は、同寺西南に残る土塁のみで山門から西へ長さ30m、幅3m、高さ1.5~2m、更に北へ直角に折れて長さ55m、幅5m、高さ2~3mである。土塁上及び内側に接して墓地があり、改変が著しい。
『遠江国風土記伝』に、「御所道場(省光寺)と中川の中間に在り、南北二箇の郭を構ふ…南郭は方七十歩余り…北郭は東西凡そ三十歩、南北六十歩…」とある。大見寺絵図面(元禄期)には、南郭の四方に高さ3間の土塁、その北と西に幅6間の空堀、土塁東南隅に山門と木戸口、北郭(二之丸)四方に東西20間、南北36間の土塁、南西隅と南東隅に出入口が描かれ、南北2郭間に「往古より堀形空地…」とあり、北郭四方と同じく堀の存在したことが推定される。当地域は見付宿の中央に位置し、東に中川が流れ、南に旧東海道が通る交通の要所で、領主支配に適した土地である。また、西に隣接する標高28mの台地上は遠望が良く、戦略的施設の存在が考えられるが、宅造等のため遺構は確認できない。中世遺物は、北郭跡より青白磁玉縁碗、台地上の塔之壇経塚遺跡より青磁・青白磁・甕・銅製経筒、和鏡などが出土している。また、昭和10年頃、北郭跡より大量の礎石が発見されたというが構造物については不明である。関連地名に、古城・城ノ腰(大見寺の北)などがある。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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