中泉御殿

なかいずみごてん
  • 中泉御殿
  • 中泉御殿

戦国末期、激動の歴史おけるもう1つの舞台

  • 名称なかいずみごてん
  • 所在地磐田市中泉
  • 様式その他
  • 遺構土塁、堀、門跡、番所跡
  • 築城年天正15年(1587)頃
  • 関連武将徳川家康

大阪の陣の作戦会議が開かれた、家康の別荘

徳川家康が家臣・伊奈忠次(後の初代中泉代官)に、宿泊・休憩施設として造営を命じた中泉御殿。市街地のため遺跡は残っていませんが、近くに裏門が移築されたとされる西願寺があり、往時を偲ぶことができます。

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中泉御殿が造られた地は、中泉府八幡宮神社神官の秋鹿氏の屋敷地で、天正6年(1578)に家康に献上されたもの。これにより秋鹿氏は久保村に替地が与えられました(秋鹿氏先祖書)。秋鹿家には、寛文6年(1666)から10年(1670)頃の中泉御殿の位置を示す絵図が伝えられています。
『遠州中泉古城記』によると、敷地は方300歩(約1万坪)、敷地の西北に水を湛えた堀があり、堀に沿った堤(土塁)の上には松が植えられ、竹柵で囲った区域が御殿跡だったと紹介されています。また、御殿が廃止された後に描かれた『中泉御殿跡御林絵図』(大乗院三仭坊蔵)には、堀と土手(土塁)が西・北・東にめぐらされ、東に虎口、敷地の北奥・中央に東西14間、南北13間の「主殿」が描かれています。さらに、昭和7年(1932)の地籍図『中泉土地宝典』には、堀や敷地の境と思われる地割が残り、敷地の西端や北西部の堀跡などは、現在でも現地で把握することができます。
御殿の構造は、敷地北面の水堀や土塁、横矢掛りの屈曲など、近世城郭の平城と同じ形態で、その城構えの中に堀や築地堀で区画された御殿殿舎の敷地があるという二重構えで、御殿殿舎を囲う堀や築地堀の位置も確定され、正門の位置や形式も判明。南面を区画する堀や門は強風に備えた掘立柱で、当地特有の気候風土に合わせたものと考えられ、正門は大型の薬医門でした。
家康は、御殿周辺に町場をつくるため、地子銭(じしせん=地代)を免除して商人が集まりやすいようにし、さらに見付から一言坂を経て天竜川畔の池田に通じていた東海道を、中泉を経由するようにさせたのも、中泉の町場としての発展を考えてのことといわれています。
また、松平家忠の『家忠日記』によると、家康が天正16年(1588)頃、しばしば中泉御殿を訪れ、鷹狩りを行ったことがわかります。つまり、中泉御殿は、家康の鷹狩りのための別荘であると同時に、関ヶ原の戦間近の激動する時代の中、徳川政権樹立に向けての知謀知略が語られていた様子が垣間見られます。

成り立ち

創築年代は『煕庵遺書』に、「天正六年(1578)中泉に於て殿を建つ、同十五年本殿の造営あり」とあり、『遠州中泉古城記』は天正15年(1587)の完成としています。徳川家康は鷹狩りの際の別荘として、駿遠三の国役をもって伊奈熊蔵に築かせたもので、廃止は寛文10年(1670)です。(『遠州中泉古城記』)
中泉御殿は、家康の遠江経略の戦国末期より他界するまで、放鷹の一別荘(旅館)として使用され、また関ケ原の戦、大坂の陣の作戦協議の場ともなりました。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

磐田原台地南の中泉丘陵南先端部、標高2~6mのほぼ平坦地で、JR東海道線磐田駅の南西に位置しています。遺構は市街地のため消滅しています。
規模は定かではありませんが、域内の北寄りには、明治初年(1867)まで東照宮社があったと伝えられています。なお、御殿表門は見付の西光寺に、裏門は西願寺に移築されたと伝えられています。東に中泉陣屋跡があります。
出典:「静岡県の中世城館跡」

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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